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八王子城、落城
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八王子城、落城

 

戦国大名、関東八州の大守と言われた、後北条氏。

関白秀吉連合対、後北条氏との戦い。

結果はご存知、関白秀吉連合の勝利に終わりました。

1590年に滅ぼされるまで、100年間。 関東八州を支配していた。

大化の改新、統一国家構想。平将門の、東国樹立構想。鎌倉に於ける、鎌倉幕府。

室町幕府対、鎌倉の関東官領。後北条政権の、東国統一構想と。

長い間、東国の独立、政権造りを目指してきました。

足利尊氏の肖像画です。守屋家所蔵から。

京都と鎌倉、関東官領が鎌倉に置かれて、様々な戦が、権力抗争が起りました。

小田原北条氏、関東の覇権を狙う存在でした。

北条氏康氏の三男、氏照氏。妻は、大石定久の娘を娶ります。

自領の油井領宛てに出した手紙には、「油井源三」を用いました。

1561年、青梅の三田氏と、1564年、房総の里見氏と、1574年、ヤナ田氏と戦をしました。

1568年、武田軍、小山田信茂らが、小仏峠を越えて攻め込みました。甘里にて氏照軍は敗退、滝山城まで攻められました。

この時、氏照氏は、二の丸にて戦いました。やっと、敵を追い払うことが出来ました。

この時の経験から、滝山城から八王子城を作る構想が、生まれます。

 

1590年の小田原の戦で、この東国構想が崩れ去ったのです。

戦を失くす為には、国家統一と考えていた、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康ら。

小田原、北条氏が敗れ、秀吉の天下となり、関東、江戸庄に入ったのが、徳川家康。

関東、北条氏に付いた武士。その領地は、取り上げられ、領主の顔ぶれが、がらりと変わったのです。

大きく変化をした、関東。

関東地域は、「小田原の戦」で、大きく変わったのです。

秀吉亡き後、江戸に徳川幕府が開かれました。 内戦の無い時代を、築いた家康。 その功は大きいと思います。

「甲州道」が造られ、徳川氏の息の掛った武士が、街道筋を固めました。

間口12軒、奥行き50軒と、決められていたみたいです。

 

                            天正10年代の、小田原北条氏の勢力範囲、領国の地図です。

                   城マークの黒いのが、北条氏の分です。

 

徳川以前の江戸は?振り返ってみます。

平安時代後期、江戸と呼ばれる地には、秩父党の一族が支配していました。

11世紀に秩父氏から出た、重継がこの地に来て江戸太郎と名乗り、江戸氏を起こしました。

1180年の源頼朝の挙兵時には、敵方として。後に御家人となり、南北朝時代は、新田義貞に従い南朝につき、後に北朝に、

鎌倉公方に仕える。

江戸太郎重長の二男、江戸武重が世田谷の木田見郷を支配、木田見次郎武重と名乗る。

江戸太郎重長の嫡子、長男忠重は喜多見氏と。

扇谷上杉家の家老、太田資長(後の道灌)が、江戸氏を喜多見へ移し、江戸氏館跡に、江戸城を築く。

江戸右京亮康重の時、木田見家と一緒になり、江戸庄を後に、世田谷の喜多見へ移住します。

扇谷上杉家が滅び、江戸城は後北条氏の、支城となる。

1580年、北条氏政は息子、氏直に家督を譲り、江戸城に隠居の身となる。

しかし、実権は父が、当主として君臨。

太田氏、千葉氏は家臣として、従いました。

 

三男氏照氏の城。八王子城。見事な築城にも拘らず、たった一日で落城、炎上。

築城技術に優れた手腕を発揮した、氏照氏。

小田原城、八王子城を造りました。八王子城、城の部分だけでも、40万坪と言われます。

城を守っていた武士達、女子達。

どんな思い出最後を迎えたのか、逃げ出せたのか。

その他大勢で無く、一人ひとり、せめて名前だけでも判ればと。

「天下分け目の決戦、関が原の戦」

その前に起こった、小田原の戦が、統一国家の元と。

関が原の戦は、残党狩、一掃作戦。

そんな気がするのですが。如何でしょうか。

 

小田原北条氏の支城

  八王子城・氏照。 鉢形城・氏那。 玉縄城・綱成。 江戸城・遠山直景。 岩槻城・太田氏房。 

  韮山城・氏規。 小机城・氏尭。 下田城・清水康英。 山中城・松田康長。 松山城・上田憲定。他。

  伊豆の下田城に篭って戦った、清水康英。伊豆衆の一人で、水軍を率いていた。

 

もしかして、ひょっとしたら、話には聞いている。

先祖は武士だったと、想う方。 ご意見、感想、訂正、在りましたら連絡下さい。

又、資料をお持ちの方、ご存知の方が居ましたら、連絡くださいますよう。

連絡には、上に有ります、「メール」を使ってください。 出来る限りの、ご返事をいたします。

関白秀吉連合軍に囲まれた、八王子城。

城の構造と弱点を熟知していた、普請奉行の一人。平井無辺の裏切りによって、一日で落城。

無辺の作戦は、一番弱いところを、最短で攻める。

藤田能登守信吉の手の者となっていた。

一番の弱点、裏側に当たる、搦め手門。

此処を落とすと、一番奥、棚沢中腹道から、天守台の中間、馬蹄段を登り、一気に本丸へ迫った。

本丸、山頂曲輪を真っ先に攻撃。 後は、両方からの挟み打ちと。

何かの時の、脱出ルートはありました。

抜かりなく無辺、脱出ルートを攻め、封鎖した。

八王子城古図(石井千城氏所蔵)から。 

 由井源三、大石源三、氏照、藤菊丸、大石源三氏照、北条源三氏照、平氏照、全部、北条氏照氏。

武士は幼名、元服後の名前が有り、養子に行けば、養子先の、幾つ物の名を持ちます。

その中でも、氏照氏は、沢山の名前を使いました。

                          八王子の城跡、はちとぴから

殿氏照の留守役、横地監物吉信。本丸、山頂曲輪を守る。

 横地氏は、早雲時代からの家臣。伊豆20家と呼ばれた、一つです。

 遠州小笠郡横地より。この地に横地城がある。

 本丸を守っていたはずの横地氏。城を抜け出し、奥多摩の檜原城へと逃げます。

 守っていた平山氏と息子。平山氏は自害。

 横地氏は平山氏の息子と、更に逃げます。

 平山氏の息子は、民家に逃げ込み無事脱出でき、後僧侶となります。

 平山氏の妻は、奥多摩のもっと奥へ、庵を開いて夫の冥福を祈っていた。

 敵に囲まれた横地氏。さすがに逃げ切れず、途中で自害。その場所は、横地社と為っています。

 横地氏の一族、埼玉の細田家に逃げ込む。

 その後、姓を細田と変えた方も居たそうです。

                悲劇の舞台となった、御主殿の滝。 身を投げたと、言われている場所です。

次将、中山家範。二の丸を守る。

 息子、孫信治まで、城を守るが、最後は自害する。後に、城跡に、金子家範と孫信治の墓が建てられました。

 近くに逃れていた、中山照守が見つけ出され、徳川に取り上げられる。

 後に、黒田子爵となる先祖。

 

狩野一庵。三の丸を守る。

 狩野氏、武田の勇将として名高い、小幡信貞の三男、帯刀。

 武田氏亡き後、豆州狩野川天野邑に居たのを、氏照氏が呼び寄せたのです。

 平井無辺の策略により、三の丸を最初に攻められ、手引きしたのではないかと、疑われてしまった。

  主家が滅ぼされると、浪人となるか、別の主に仕えるのが、普通でした。

 

近藤出羽守、大手門、山下曲輪、近藤曲輪を守る。

 

金子三郎右衛門家重、金子曲輪を守る。

 金子氏、山崎氏の家臣、堀角氏に打たれた。

 金子家範ー小太郎高範ー難波田小太郎ー難波田禅正ーと。

 比企郡松山城を守ったのは、難波田憲次。

                           山の上に在る、八王子の謂れとなった神社です。

小宮氏、小宮曲輪を守る。小宮清綱。

松木氏、松木曲輪を守る。

浄福寺城、大石四郎右衛門、大石平太経正、風間忍衆が、中心になって守る。直ぐに落城。

 

心源院、大石定久の弟がこの寺の僧。

 川原宿にあり、舜悦杣山禅師の開山。氏照氏の祈願寺として、搦め手を守る役目もしていた。

 守っていたのは、僧侶。

 寺は放火され、尾根の登坂路を突破されます。弟の僧は、脱出できた。

  後に自害した、氏照氏の首を包んだ袈裟だけが、残っています。

 1590年以前には、武田信玄の娘、松姫が逃げてきて、この寺に匿われた。

 

小田野城、重臣、小田野源太左衛門の屋敷、小田野氏が守る。

 城山の両側から、上杉、前田軍に攻められ、落ちる。

 

中宿門、馬場対馬守が守る。

               浄福寺城跡にたつ、寺です。

 浄福寺、大石氏が築いた城で、呼び名が沢山あります。

 新城、案下城、松竹城、千手城、ニ城などです。

 この寺には、「千手観音像」は奉られています。 

 搦め手口への防御の役目を果たすのが、目的でした。

 大石四郎右衛門、大石平太経正ら、風間忍衆を中心に守った。

  大石源左衛門定久の家臣、乙幡勘解由態忠。戦後帰農、昭島で百姓、孫左衛門。

 五十嵐小文次、戦後帰農、伝次。昭島。

 紅林八兵衛、戦後帰農、郷地。

 

龍泉寺砦、見張り場所、見張り台のような感じで、尾根伝いの谷筋の動きが、手に取るように分る場所でした。

七面堂砦、南北を見渡せる尾根にありました。

御霊谷南本営、鈴木彦八が守る。

 前田軍がここを突破、太鼓曲輪尾根に向かった。

 

太鼓曲輪、平山左衛門尉綱景が守る。

 檜原城主、平山氏の弟。

  御主殿川の南側の尾根に、曲輪が作られ、掘り切り5箇所が設けられていた。

 平山家臣、土屋五郎左衛門、坂本四郎左衛門ら。

 

慈眼寺、高尾一族が守る。

 高尾備前守、高尾助六、親子。 高尾の平山弥八郎、弥九郎、(高尾氏)。 高尾近江守。

おくめ淵の岩崎源三。 網代の貴志嶋豊後守。 留原の青木氏。

                               八王子城配置

 

推測で考えて見ました。

 武士一人に対し、従者二名と考えています。 50と言うのは、人数で約150人ぐらいと。

 城を望む場所に、其々見張り台を置いたと想います。 その人数は2〜3人だったのではないかと、想います。

 状況をいち早く知らせ、その後は他の場所へ行ったと考えます。 見張り台10箇所ぐらいで、20〜30人ぐらいと。

 連絡係、繋ぎ役、山伏、これも20〜30人ぐらいと。

 各曲輪の中に居た女子達。 篭城を考えた上の手伝い。90人ぐらいと。

 篭城を考えたと思うのは、農業用具を持参の上と言う、お触れを氏照氏が出していたからです。

 沢山の人を食べさせることだけでも、大変な仕事です。食事の世話、洗濯他をする、人手は幾らでも欲しかったと思います。

 武士の妻、女子、100人ぐらいと。

 一番低く見積もって、4000人以上の人数が、城内に居たと考えております。

 押し寄せた連合軍側が、2万〜2万3千人ぐらいだったと想定して、篭城の有利さ、山城の有利さを考えると、3分の1ぐらいの

 篭城者が居れば、勝てる確立は非常に高いのです。

 

滝山城、大石氏一族が守る。

 

片倉城、八王子城落城後の一掃戦で、殆どの抵抗無く落城。

 

 その日の城内は、名だたる大寺の住職が招かれ、必勝祈願のゴマ法要が営まれ、賑わっていたようです。

 高幡の金剛寺から、大久野の西福寺から、青梅の金剛寺からと。

城内に居た方々。

 滝山衆

由木氏、大石氏、布施氏、横地氏、近藤氏、進藤氏、狩野氏、中島氏、長野氏、藤曲氏、設楽氏、大竹氏、

三田氏、師岡氏、篠橋氏、久下氏、竹内氏、神田氏、塚田氏、豊泉氏、宮寺氏、原嶋氏、馬場氏、黒沢氏、新氏、宮倉氏

野口氏、大野氏、井上氏、福岡氏、木崎氏、和田氏、小佐久氏、滝上氏、並木氏、二ノ宮氏、加治氏、毛呂氏、岡部氏、

平山氏、賀沼氏、境野氏、石川氏、ら

 

奉行衆

 狩野一庵、間宮綱信、横地与三郎、大石氏、近藤綱秀(下野榎本城主)、横地監物吉信、布施刑部少輔景尊、

 小田野源太左衛門、平山綱景、大石照基、専正軒、設楽、一雲、藤部、狩野刑部大輔、藤曲、長野、大石信濃守、

 大石四郎右衛門、布施美作守、由木左衛門、中島大蔵丞、大竹丹後、鈴木弥五郎、ら各氏がいました。

 

 元清戸三番衆

 三田治部少輔、師岡采女佑、藤橋小三郎、久下兵庫助、竹内藤十郎、神田与兵衛、神田半三郎、塚田大炊助、

 豊泉十兵衛、豊泉隼人、豊泉惣五郎、豊泉半十郎、豊泉惣二郎、宮寺四郎左衛門、宮寺与七郎、宮寺掃部助、

 師岡伝左衛門、師岡兵部丞、師岡兵庫助、師岡九郎五郎、師岡新右衛門、原嶋孫二郎、原嶋善六郎代、

 宮倉源二郎、野口刑部丞、大野孫六郎、井上半助、久下小三郎、神田左京亮、福岡藤三郎、木崎又兵衛、

 和田左京亮、小佐久、滝上助九郎、並木、二宮、加治弥六郎ら。

 

平井無辺

 大久野にある平井館。 北条家の家臣。 普請奉行。

 上杉軍に攻められ、降伏し、寝返り案内役となった。 氏照氏配下での、裏切りはこの人だけです。

  平井氏に接触したのは、藤田氏のようです。

 北条家の中で、二男の妻は、徳川家から。 三男は大石氏へ養子に。 藤田家に養子に入った人も居ます。

 平井氏の謀反は、何故だったのか? 推測すると面白いと想います。

 

三沢衆

 地元三沢衆の面々。

 三沢とは、百草園と高幡の間、湯沢、中沢、小沢の三沢にある村。

 1570〜1590年、氏照氏直属の武士集団として、常に行動を共にし、武勇を馳せ活躍していた。

 三沢十騎と呼ばれた。 棟梁、三沢村の名主、土方弥八郎。先祖は、高幡氏。

 中世、武蔵西党として、高幡不動尊の有る、三沢一帯を支配した一族。

 が、一旦帰農し、名主職を務める。

 小田原北条、氏照氏が滝山城に入り、城下町の警備の為に、呼び出され、組織を作った。

 高幡の地から、浅川の対岸、石田村へ移住。

 滝山城の弱点、東南の警備に当たります。

 石田寺は、この移住する時に、末寺として建立した寺です。

 土方氏を棟梁として、数々の場面で活躍。

 土方平左衛門尉、土方善四郎。

 八王子城には、氏照氏より、村の男衆は全員城に篭るよう、要請された。

 

由井衆

 地元由木衆の面々。養子先の大石家の旧領を中心としていた。

 大石一族、その家臣団。 小田野源太左衛門、小田野新左衛門、小田野肥後守、大石左馬助、来住野大炊助、

 大向乗吉、森田重吉、野口四郎左衛門、野口五郎左衛門乗信、野口大炊助、野口与一、野口与七郎、大福田、

 積善庵、平内、小宮清綱、布施兵庫太夫、金子大蔵丞、原嶋新三良、乙幡勘解由態忠、

 金子掃部助ー跡目を、宮寺与七郎に継がせる。

 鈴木弥五郎ー座間の鍛冶職人、大石氏の御用を務める。

 

油井領

 町田小山田、町田上溝、町田下溝、多摩の落合を含み、座間、相模原地域。

 

諸家臣

 荒木氏、荒川氏、上田氏、道祖士氏、依田氏、力丸氏、山田氏、御嶽氏、山上氏、伊奈氏、比企氏、熊沢氏、桜井氏、

 中村氏、大河内氏、山口氏、大串氏、本田氏、細萱氏、毛呂氏、米山氏、大貫氏。

 

 出陣の際の身なりを整える条件として。

 兜の前立物を着用、竹鑓は禁止、銀箔の偽の鑓も禁止、18〜21センチの二重にした紙をつけること、鑓持ちの足軽には、

 皮の陣笠を用いること、20歳にならない若者は、出陣させてはいけない。

 

長田作左衛門 1566〜1617年

 甲州都留郡大原村譲原村出身。

 八王子城に篭って、前田軍と戦う。

 傷を負い逃げ出し、民家で療養中を発見される。

 探索人、加州軍の川島右近。この右近と長田氏は親戚でした。

 右近により、前田公に見参出来、後の八王子の復興を担う方です。

 

一曲輪、指揮、大工綾野で、大久野番匠、落合四郎左衛門が守る。

 領内番匠を総て集め、妻子とも城内に入る。匠、大工である。落合八郎左衛門(野口),落合十左衛門(野口)ら、

 野口氏、武州御岳神社が一族の神社。

  北条家臣、野口秀房。

 八王子城、落城後に、徳川家康に見出される。家臣となる。

 家康より、御岳神社造営奉行を任せられる。丁寧寺に、野口秀房奉納の、位牌があります。

 

小河内衆の棟梁、杉田氏

 先祖は、多々良五郎義春と名乗っていた。

 「和田の戦」で負けた後、奥多摩に移り住み、杉田と名乗る。

 北条氏が負けた後、帰農し名主職を。

 

小田原北条氏康氏の画像。(早雲寺所蔵)から。

越後、長尾景虎(後、上杉謙信)、甲斐の武田信玄、小田原、北条氏康。

関東の覇者を狙う、図抜けた存在でした。

高橋康種

 父親が、北条氏の家臣。伊豆にて生まれる。

 小田原城開城の後、三鷹は牟礼に移住。村を作る。

 牟礼を選んだのは、深大寺城の難波田氏との戦のとき、(この戦に高橋氏は勝利)牟礼に陣を張っていたことから。

 

小川九郎兵衛

 八王子城落城後、父親と共に岸村へ逃げた。

 小平村の前身、小川村を作る。 先祖は、上野国小川と、武蔵国高麗郡小川ノ庄を、領有していた。

 

板部岡江雪斎

 小田原城に居た方、関白秀吉からの、北条親子との和解条件が、親子の上洛でした。

 北条親子は、理由をつけては、代理として、板部岡江雪斎を秀吉の下に、送り出したのです。

  戦後、交渉役として徳川家康に仕え、旗本となる

 

乙幡勘解由態忠

 大石源左衛門定久の家臣。

 小田原北条氏が滅びた後、昭島に帰農し、百姓として孫左衛門が、子孫。

 

丹二郎、三郎。

 北条氏が負けたあと、奥多摩の原嶋の地に逃げて、村を作る。

 原嶋友一、友連と名乗る。

 

伊豆衆。

 清水氏、笠原氏、秩父氏、伊東氏、仁杉氏、山中氏、村田氏、江川氏、高橋氏、鈴木氏。 

清水氏、志水、清水と書く。

 北条氏が負けた後、奥多摩に移住。 丹党、秩父丹五基房の子孫。

 

佐藤氏。

 日野用水を、氏照氏の協力により、作り上げた方。

 青梅は成木、佐藤助十郎。八王子城にて、戦死。

谷保から。

 佐藤氏。佐伯氏。堀江氏。遠藤氏。

 氏照家臣。八王子城、落城後、帰農する。

 

戸倉の木住野大炊助。甚七郎。萩原五兵衛。久下兵庫助。 

 

讃岐役所当番衆

 野辺、雨間、牛沼、代綱、淵上、引田、山田、綱代、伊奈、横沢、立谷、高尾、留原、小和田、五日市、中野、乙津、

 養沢、入野、三内、大久野、滝山城の近くが、殆ど当たります。

 

江戸氏、猿渡氏。

 猿渡氏の血筋は、此処で絶え、妹の子を養子に迎え、今に至る。

 妹は江戸城主 遠山氏に嫁いでいた。

 

江戸衆

 遠山氏、太田氏、千葉氏、富永氏、小幡氏、島津氏、伊丹氏、中条氏、会田氏、河村氏、小菅氏、興津氏、本田氏、朝倉氏、

 梶原氏、森氏、猿渡氏,三善太田氏。

松山の木呂子氏。

難波田氏。

 

井田太郎左衛門政能、息子次郎摂津守是政。

 是政は逃げ出して、府中へ行き、是政村を造る。

富永氏。

 是政と同じ行動を取る。

高橋氏。

 是政と同じ行動を取る。

小磯氏。 もしご存知の方が居ましたら、どうぞ連絡を願います。

 是政と同じ行動を取る。

 橘幹郡小向の高橋氏、落城後僧となり、高橋改め、井田と名乗っていた。

 日蓮に帰依した、高橋五郎時光。各地に寺を建立した。

 

立川氏。

 代々住んでいた、立川館から移住する。

師岡氏。

三田氏。

由木氏。

小田野氏。

久下氏。

中沢氏。

宿谷氏。

浅羽氏。

貴志氏。

中島氏。子孫の方かどうかは不明ながら、多摩の各地に活躍なされた、中島氏が沢山居ます。

 多摩丘陵に館あり。息子の一人を、八王子恩方へ逃がす。 中島酒造。

 

嶋崎氏。 常陸国の嶋崎姓からと考えられますが、何かご存知の方は、連絡願います。

 嶋崎二郎利幹。唐木田城主、棚原城主。

 「嶋崎氏」、常陸国の嶋崎氏からと想います。 不確かながら、宜しければ嶋崎氏関係の資料はあります。

 ご覧になりたい方は、「嶋崎氏」資料希望と、メールを下さい。

 http://kakeikara.web.fc2.com/index.html  調べられた事だけですが、嶋崎氏について、載せてあります。

 

永島氏。

 多摩に館あり。

 

 調布では:小田原北条氏家臣の家系が、52軒有ります。

 

北条氏の普請奉行の、平井無辺の案内が無ければ、八王子城は、攻めるのに非常に、困難な城でした。

篭城作戦が、成功するかに思えたのです。

無血開城の小田原城。徹底的に攻められた、八王子城。

後北条政権の中での、氏照氏の立場。

三男の立場で、本家家臣。

氏照氏の頭脳によるところの大きな、後北条政権。

氏照氏の存在は、非常に大きかったのです。

戦略を立てる上で、関白秀吉、徳川共に困ったところなのでしょう。

後北条氏の系統を、そっくり家臣として取り込みたい希望も有ったのでは。

非常に理論的、戦略的頭脳には悩まされました。 このままでは、捨てて置けない氏照氏なのです。

八王子城の落城が無ければ、どんな展開になっていたのでしょう。

平井無辺の構造上の弱点、最短の戦いの戦術に、見事にしてやられました。

霧の出ている中、火を放たれ、煙の中、敵味方の区別が付かない状態。

いつの間にか、挟み撃ちにあっていたようです。

 最高の城造りを目指して、作り上げた氏照氏です。

覚悟を決めるのも、もっともな気が致します。

 

秀吉の命は 「八王子からの落人が、逃げた先から帰って来ても、一人たりとも逃さないこと」 

この 「触れ」 を出したのです。

弟、氏規氏の介錯にて、切腹した氏照氏。

氏政氏は、日野田村安栖の館に来て、自害する。

その後の北条一族

 小田原当主、氏直氏は徳川家康の娘を娶っていた為、高野山へ蟄居の仕置き。

 1591年、氏直氏は許されて、一万石に減封の上、領地を与えられる。

 叔父の氏規氏、河内丹南郡に、6980石の領地を拝領する。

 氏規氏の孫の時代には、一万一千石となり、河内狭山藩となる。

 

 氏綱氏の娘を娶り、北条家を纏めた福島綱成の一族は。

 1591年、遠州掛川で、三万石の大名となる。

 1618年、綱成氏のひ孫、氏勝氏の子、氏重氏は死に、氏勝氏の弟、繁広氏が兄の養子となり、3400石の旗本と

 して残ります。

 

 ミツウロコの紋は、狭山大名家。

 それに丸を加えた紋が、旗本北条家。

 大名北条家が「伊勢手紙」の中で広く使った、揚羽蝶の変形「北条向かい蝶」もあります。

 

北条家の頭脳と言われた、氏照氏。

辞世の句は 「天地の清き 中より生きて 元の住処に帰るべらなり」 1540〜1590 氏照。

 


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