八王子城、落城 短歌 ライフデザイン・コンサルタントとは 私の住む町 調布 ショップページ 会社概要 プライバシーポリシー
私の住む町 調布
私の住む町 調布
home > 私の住む町 調布 > 私の住む町 調布
私の住む町 調布

 


私の住む調布の、移り替り。
其々の村が、町になり、市に変わる。
古くからの村から、町となり、市になって、50年余。

   

 

 

             其々の村が、町になり、市になって35年余  

  

       武蔵野台地 調布の隣 多摩川沿いに位置する 狛江。

昔の和名 「古乃江」 「古萬江」 「駒江」 とも書いていました。駒江の面影は、駒井に残されています。

昔の狛江郷は、かなりの広さでした。世田谷の一部、千歳、砧を含め、駒井本郷は

登戸あたりまで。

今現在の狛江の地図と、昔の狛江とは違っています。

世田谷領、関係の深い事実が、沢山有ります。

狛江の地名は、朝鮮語が結構入っています。

興味を持ちましたら、私の住む町シリーズから「狛江」を選んでください。

1889年、矢島村、国領村、下布田村、上布田村、布田小島村、下石原村、上石原村、

      飛田給村が合併して、調布町となる。 深大寺村、佐須村、柴崎村、大町村、

      矢島村、金子村、入間村、北野村、下千川村が合併して、神代村となる。

1952年、神代村が神代町となる。

1955年、調布町と神代町が合併して、調布市となる。 

 

現在狛江市の人口は、約7万7千人。多摩地域30市町村の中で、人口密度は、3番目。

現在調布市の人口は、約21万7千人。30市町村の中で、人口密度は、6番目です。

昔は?

甲州道、一番目の宿場は高井戸宿でした。

後に内藤新宿宿が出来ました。が直ぐに潰れました。

再度内藤新宿宿場が出来たとき、岡場所として有名になりました。

内藤新宿、高井戸、布田となりました。

             甲州道中、二番目の宿場、布田五宿の図

 

            昭和初期の、調布の古民家を、参考にさせて頂きました。

 江戸まで23キロ、高井戸宿まで6キロ、国府府中に向かい、最初の国領宿です。

 宿場全体で、2000石を超える程でした。

 国領宿の長さ900メートル、旅籠1軒、茶店、小商いの店がありました。

 宿役として、人馬継ぎとして、8人、馬6匹を常駐させること。

 当番日は、月の25〜晦日までとする。 

甲州道中、古くは海道と書いていたそうです。

海道を行くのでないから、「道中」を使うように、訂正が入りました。

 

甲州道と名前を付けたのは、徳川家康でしょう。しかし生活道として、古くから国府へ行く道として、存在していたのです。使いやすいように、整備、支配されて、甲州道となったと

想います。街道は幕府の管轄になり、改修、路線の変更などは、勝手に出来なくなりました。幕府にとって、都合の良い制度にしたのです。

甲州道の特徴は「お茶壺道中」、将軍への献上の「宇治の新茶」を運ぶのです。 

 

国領宿の「円福寺」、鎌倉、北条氏が崩壊した時、北条泰時の弟が、この地に逃げてきて、僧となり「開壽丸」と名乗って、寺を開いたそうです。

何故、国領に。その昔、国領、つまり天領だったことに、関係があるのではないでしょうか。その時、一緒に逃げてきた七家の武士。

荻窪氏、荻本氏、海老水氏、村上氏、熊沢氏、原嶋氏、井上氏、の各氏も一緒に来たのです。

問屋場、人馬継所、立場とも言いました。

街道を行く人の、「駅」。此処で、馬や人足を雇ったり、荷を積み替えたり、飛脚に文を頼んだりと。旅の中継所、案内所と想って下さい。

 

問屋場で働く役人、頭取は土地の者です。

その下に、年寄り。実際の問屋場の、指揮官です。

業務内容の記入、収支報告、勘定を任されていたのが、帳付けです。

人馬差配、人足や馬の割り当てをする係りです。

皆別に稼業を持っていました。問屋場の仕事は、交替でしました。

 

「本陣」とは、殿の滞在場所。大名とその一行となります。

武士にとって「旅」とは、本来戦となります。

 

陣を張る。泊る所です。中で、殿の場所が「本陣」です。其処から、旅籠でも特別な「本陣」

が生まれました。

 

 多摩の100年写真集から。 京王帝都バスが、最初に走り始めたころの写真です。

見たことが無い方も、多いと思いますが、懐かしい方も居るのでは?

 

            下布田宿、宿の長さ400メートル、当番日19〜24まで。

     宿役として、問屋2人、年寄3人、帳簿付け1人、馬指し1人、常駐のこと。

     旅籠3軒

                 

 布田宿は、江戸市民、府中領内から、川遊び、桜見物、国分寺へ、国府へ行く途中で、 

  鮎料理を楽しむ為にと、大変に賑わっていたのです。

 

      大正中頃、多摩川での「舟遊び」の様子です。調布今昔写真集から。

 

        「多摩川の鵜飼」の様子です。宇津木十四郎氏所蔵から。

多摩川名物の「鮎」。献上品、税の替りにもなりました。鵜匠が、鵜を操り、鮎を取るのです。

 

布田宿の千人同心。

 将軍家を護る為、甲州道に、千人同心が配置されます。

 頭九人、萩原氏、上窪田氏、下窪田氏、志村氏、原氏、中村氏、河野氏、山本氏、

 石坂氏、其々部下50人編成でした。

 

 窪田別家を、加えて10頭。元武田家臣から、250人。元北条家臣から、250人。

 1635年に、10頭に部下が100人。合計千人。 此処で千人同心となります。

 

家康から

 布田五宿に、窪田氏、原氏、中村氏、石坂氏らが、領地を賜りました。

 

         徳川家康から、深大寺への「寄進状」です。 深大寺所蔵から。

部下、組頭から

 植田孟縉、「新編武蔵風土記稿」で有名。

 塩野適斎、「桑都日記」「新編武蔵風土記稿」で有名。

 小谷田子寅、蘭学者。

 三田村鳶魚、江戸文化・風俗研究家。同心勤めはしていません。

 近藤(坂本)三助、天然理心流二代目。

 

                   「深大寺縁起絵巻」から。

 

深大寺用水

 江戸時代に、野川の水を引く為に作られた、用水です。

 用水建設に尽力なされた方々。

  富沢氏、佐保田氏、秋輪氏、箕輪氏、萩原氏、中村氏、小林氏、藤田氏、糟谷氏、

  原氏、渡辺氏、花形氏、吉野氏、宮川氏、白鳥氏、谷戸氏、比留間氏、新川氏らが

  居ました。

 

     上布田宿、宿の長さ640メートル。当番日、月の13〜18日まで。

   宿役として、問屋2人、年寄7人、帳簿付け2人、馬指し1人、常駐のこと。 

   旅籠5軒    

布田天神、その他の祭り時の縁日など、人出が多かったのです。

有名な小金井の「お兄いさん」も、府中領の中の縁日、香具師の元締めとして、

活躍されていました。己、一代限りとして。

布田五宿の総元締め、原家。ぶどう酒造りをしていました。

宿役とは、高井戸宿へ、府中宿へ、伝達、荷運び、連絡の役目が入ります。

籠屋も、貸し馬屋も、飛脚も、芸子さんも、いたのです。

「多摩川の風景」 原武利氏所蔵から。

名主とは

 一般の農家と違い、屋敷には門、玄関を作ることが許されていました。

 関所を通るとき、必ず必要な手形。村人の為に、一筆書くのも仕事でした。

関所手形は、「差し上げます、一札の事」から、始まります。

 「この者一人、高尾迄まかり通り申し候。御関所相違いなく御通し下さるべく候。後日の  

  為、一札申し上げ申す所、拠って件のごとし」日野宿名主、七郎左衛門。と書きます。

 

町飛脚

 武士の私用、商人、庶民の通信に利用された。

 1663年、三都の商人が創業。毎月2の付く日発送で「三度飛脚」とも。

 1773年、各街道に、取次ぎ所が設けられ、通信、為替、送金が容易に出来るように

 なります。この時代に、もう郵便制度の土台が出来ていたのです。

 世界的に見ても、是は素晴らしいことでしょう。

 

多摩の100年写真集から。

多摩川、関戸の渡しの様子です。昭和3年ごろ。

 

 下石原宿、宿の長さ700メートル。当番日、月の7〜12日まで。

宿役として、問屋2人、年寄2人、帳簿付け1人、馬指し1人、常駐のこと。

旅籠は一軒もありませんでした。元支配していた方が、旗本が多かったのです。

一石とは

 領地の単位。

 一反で、米一俵出来ると考え、1000俵で、一石と。

 一反は、約300坪。

 一石の領地とは、300、000坪でしょうか。

  武士のとって「一石一城の主」が夢、目標だったのが、解る気がしませんか。

 

多摩の自由民権運動

 1874年、板垣退助、後藤象次郎らが、選挙により議員を選び、国会を開設することを

 求める「民選議院設立建白書」を提出しました。

 1881年、国会開設の約束の、「詔勅」が出ます。

 民権運動が盛んになります。日本国憲法を、独自に作る動きが起こり、「五日市憲法」

 有名な草案が作られました。

  昔多摩は、神奈川県に属し、全国でも一、二を争う、自由党の王国でした。

 三多摩に強い影響力を与えた方、中島 信行氏です。

 

 幕末、坂本竜馬の「海援隊」で活躍、維新後、徴士、外国官権判事、兵庫県判事、

 大蔵省紙幣権頭、租税権頭を歴任なされた方です。

 特に、地方自治に、力を注ぎ、この方の影響力が大きかったのです。

 府中の高安寺にて、「自治改進党」の発表が行われました。

 社長に、立川の砂川源五右衛門氏。 

                               立川、砂川源五右衛門氏。砂川家所蔵から。

 副社長に、三鷹の吉野泰三氏、が選ばれます。

             三鷹の、吉野泰三氏。吉野家所蔵から。

幹事として、谷保から、本田定年氏。上石原から、中村克昌氏。

 立川から、板谷元五右衛門氏。府中から、比留間雄亮氏。

 立川から、中島治部兵衛氏が選ばれました。

 この中から、後に代議士となる方々が出ました。

 選挙が出来る人は、税金を払っていた人だけでした。

  明治23年多額納税者から。

  1〜4番目まで、横浜の商人です。

  相川村、成瀬村の農家。多摩では、9番目桑田村、10番目八王寺町、13番目堺村、

  農家の方々です。

 1884年、一時は政府を窮地に追い込む程の、民権運動も、自由党の解党により、

   崩壊します。

 1886年、教科書の検定制度が、明文化され、各小学校会に公布されました。

   自由民権運動の激化により、危機感を強めた政府が、民権運動の排除の目的で

   行った制度です。

 

 

    大正時代に、境新道を走った、ゴム輪の付いた、「新型乗り合い馬車」です。

      本橋トク氏所蔵から。

  

三多摩地方の社会運動

 労、農運動の組織化と運動。

 1917年、ロシアで起った社会主義革命から、盛んになります。

 日本の労働運動が、本格的に始まった、画期的な出来事です。

 1924年、立川町の弁護士・下田 金助氏を顧問に、調布町の二宮 五右衛門氏が

 組合長として、賃金労働者の「三多摩労働組合」が結成されました。

 

 小作人で、「農民組合」、三多摩農民運動を興したのが、府中町の矢部 甚五氏。

 

 キリスト教社会主義を受けて、「農民青年」を組織したのが、八王子町の橋本 義夫氏。

 橋本氏は、自由民権運動・困民党の歴史の研究に尽くし、「ふだん記」を広め、

 「自分史」執筆運動を、最初に始めた方です。

 

 独立労働協会支部の設立に尽力なされた、八王子町の森田 喜一郎氏。

 立川・下田氏の「労働組合」、府中・矢部氏の「小作人組合」、八王子・橋本氏の

 「青年派」を総て, その後に大きく影響を与える、流れを作ったのです。

 

 多摩の100年写真集から。

多摩川の河原での、軍事演習の様子です。

昭和初期、戦争に入る前ごろと思います。

調布町も戦禍に遭いました。軍需工場、中島飛行場、中島飛行機三鷹研究所がありました。

中島飛行機が作った「剣」、空飛ぶ棺おけと、呼ばれていました。

一回だけの飛行、体当たり攻撃、本土決戦用の機です。

105機制作されましたが、実戦には使われず、終戦。

下石原村は、アメリカ爆撃機からの爆弾投下による被害、大きな火災の被害に遭いました。 

上石原宿、宿の長さ600メートル、当番日、月の1〜6日まで。

宿役として、問屋2人、年寄4人、帳簿付け2人、馬指し1人、常駐のこと。

旅籠4軒

 

                                            上石原宿

 

この地図は、「上石原と 祭りばやし」中村虎太著、を参考にさせて頂きました。

上石原は、近藤勇の生家があることで、有名です。

甲府へ出立の時、中屋へ寄ったことは、事実です。

 

上石原宿の成立は、少し変わっています。現在の場所は、元は飛田給と呼ばれた場所。

上石原村は、多摩川沿い、押立村の隣にありました。

徳川家康が甲州道を作るとき、街道に宿を造りました。ところが、飛田給村は人口が少なく、宿を運営出来なかったのです。

替わって、上石原村の住民が、甲州道沿いの飛び地を与えられ、移住し、上石原宿を運営してきたのです。

川の氾濫で移動された布田天神と同じ様に、上石原宿を開く時に、西光寺も、一緒に飛び地へと移されました。

 

 

是が西光寺にある、似王様です。

右の手を上げている方、「あ」。 左の手を下ろしている方、「うん」。

人は生まれる時に、あ〜と言って生まれ、死ぬ時には、う〜んと言って死ぬと。

まあ、参拝の時には、まず「あ」の方に、終わったら、「うん」の方に、挨拶をね。

二段構えの門、似王様を持つ寺は、西光寺だけです。

 

 これは上石原に残る、おかめの面です。

近藤氏の活躍の為にと、持てるお金を、近藤氏へ差し出した方もおります。

近藤氏の墓は三鷹に有りますが、西光寺に坐像があります。

 

「砧」は布を叩き柔らかくする時に、使います。

昔のアイロン、中に炭を入れて、使いました。明石屋に残っています。

 明石屋は宮川さんです。本家は甲州道で古くは魚屋をしていました。

宮川家から、飛び地の開墾に出向き、三鷹との境界近くに地を構えたのが、後の近藤勇の生家となる、宮川家は、甲州道、宮川家の分家です。

 

「この街道を開かれしは、慶長7年にして、寛文8年。人馬の養料とし、毎宿に、

金百両を貸し与えられる。当宿開発の年暦、定かならず」

 

 

江戸時代に流行った、伊勢参りの時の、道中日記です。

上石原宿の、田中屋。藤棚の中村俊一氏の所蔵です。

 

1里、4キロ、歩いて約1時間。わらじで歩くのです。疲れた頃となり、茶店で一休み。

少し腹が減った時、団子。寒い時には、甘酒。暑い時には、ところてん。

遊び疲れて、籠を呼んでもらう。暗くなったら、提灯を借りる。

 

日本の慣習と礼儀のスケッチより。

  大名が登城した時の様子を、描いた物です。裃を着け、腰の大小の刀は持ち込み

  ご法度。小姓が付きます。 

これは江戸城を中心に、道と宿場の地図です。

 

戦争の記録関連

 「調布市戦時記録保存会」 岩崎 清吾氏。

 「調布、狛江、8・15戦争体験を語る会」 本田 栄一氏。

 「中島飛行場戦災殉職者慰霊碑」 西東京市、東伏見稲荷神社に在ります。

軍需関連施設から。

 陸軍調布飛行場、第17飛行団司令部。

 飛行第144戦隊、独立飛行第101中隊、第14航空通信隊が配置された。

 B29戦闘機に対して、「はがくれ隊」を結成。体当たり攻撃を目的に。

 

          昭和29年、9月。中村吉治氏の撮影です。

昭和14年に着工の、調布飛行場。戦争が始まると、軍隊が使用します。この写真は、飛行機を格納する為の、壕です。写真のこの場所は、旧飛田給字道生通888番地。板橋一郎氏の畑の中に在ったのです。

 中島飛行機三鷹研究所、三鷹市。

 中島飛行機武蔵野製作所、武蔵野市役所の所。

 中島航空金属、西東京市。

 日本製鋼所武蔵製作所、府中市。

 陸軍燃料廠、府中市。

 陸軍技術研究所、小金井市。

 陸軍経理学校、小平市。

 東京芝浦電気府中工場、国立市。

 

 味の素スタジアムが、見えていますでしょう。まだ若い、桜並木です。車の中からの撮影でした。

多摩の地酒

 

 狛江; 「桜子」はじめ、土屋酒造。 府中: 「国府鶴」、野口酒造。 サントリー武蔵野

 工場: 「作りたてビール」。 立川: 「カミカゼビール」。 多摩: 「原峰のいずみ」、

 多摩商工会。 町田: 「月丸」、町田商工会。 小平: 「小平の杉」、高橋商店。 

 東村山: 豊島酒造。 武蔵村山: 「多摩湖の香り」はじめ、渡辺酒造。 

 青梅: 小沢酒造。 大多摩酒造。 あきる野: 中村酒造。 野崎酒造。 福生: 石川

 酒造。 羽村: 田村酒造。 八王子: 中島酒造。 西岡酒造。 大沢酒造。

 町田の「禅寺丸柿ワイン」大賀蓮から作った焼酎「太古のめざめ」。

 三鷹の「キウイフルーツワイン」。

 奥多摩の「奥多摩わさび焼酎」。

 檜原村の「柚子ワイン」「じゃがいも焼酎」。

 福生のビール「多摩の恵」。 立川・無門の「西国立ビール」。 多摩ブルーワリーの

 「多摩ビール」。

 東村山の「東京金時」。 「立川うど」。 小平から始まった、ブルーベリー栽培。

 「日野ファーストトマト」。 清瀬の「にんじん」。 「高尾ブドウ」。 こんにゃく、わさびと。

 

こんな時代も有ったこと、です。

「ショップページ」で、「私の住む町シリーズ」はお買い求めになれます。

何か知りたいこと、違うことが有りましたら、メール連絡下さい。

出来るだけ、判ることはお返事させて頂きます。

                企画、地図製作、ジュノー企画
 

私の住む町 調布 

 


 

 

       この地図は、昔の村と国府府中、古戦場跡も入れました。

 

「会う人に 問えど 変わらぬ同じ名の 幾日なりぬ 武蔵野の原」

後鳥羽院下野の女房が読んだ句です。旅の途中で「此処は何処ですか?」と尋ねると、「此処は武蔵野です」と幾日も返事が返ってくる。武蔵野の原は、なんと

広いのでしょうとの感想をもったそうです。それ程の広さの武蔵野台地。

武蔵国府の置かれた府中の東隣、多摩川沿いに、調布はあります。

          

武蔵野のイメージが強い、雑木林。何時頃からなのか、江戸に幕府が置かれてからです。色々な場所から、人が流れ込んで出来た、江戸。人が多くなって、生活に必要な薪、炭が不足しました。それで幕府が、植林を奨励したのです。

本来の武蔵野は、草地なのです。

  武蔵国には、21郡あり、その中に領として分かれていました。

 

「草より出でて 草に入る。又草の秋に 旅寝の日数を分かれ 問うべき里の

遥かなりけり」と歌われているように、草の原でした。

昔の武蔵野を知る人々が、残念に想った。新田開発、植林、すっかりと、昔の

風情が、無くなって仕舞ったことをです。今も昔も、同じ様な感想を、持って

いた人がいたのです。狛江郷金子村。東は入間から、西は柴崎、佐須、国領、南は覚東、小足立、大町。北は中千川、北野、深大寺迄を金子村と、言いました。

深大寺城は、難波田禅正とも名乗った、金子氏が造った城です。後上杉が修理しました。

小田原北条氏滅亡後、此処を支配したのが、柴田氏です。越前北の庄で、戦死

した柴田勝家の孫。柴田勝重です。1632年千川陣屋にて、病死しました。

墓は春清寺に有ります。元禄に三河の地へ、移されました。

野川天神、天神山砦は、金子氏が造ったものです。島屋敷村に金子時光の館跡。

天正の頃まで、子孫金子禅正が住んでいた場所です。

 

 

武蔵野の蕎麦作りは、高麗からの渡来人によって、この地に広められた。霊亀2年、東国7カ国の高麗人を、1,799人狛江に呼び集めて、住まわせたのが、狛江村の始まりです。

 街道沿いに、宿場を制定する。五宿。その一つが、布田五宿
国領、下布田、上布田、下石原、上石原である。

 人口が少なく、生活しやすい場所。美味しい湧き水が溢れ、わさびも出来、魚も取れ、麻、蚕の養蚕も盛んな地。
正倉院御物に残る、武蔵国の「調布」の布。(正倉院宝物)天平6年。
朝廷への貢物。武蔵野国は、織物を差し出していた。この織物は、朝廷費用として

役人への支払いとして、用いられた。渡来人から、受け継いだ技術が、いろいろ

使われています。

 1872年頃、明治の初め頃から、この村々は、学校教育に力を、入れていた。
滝坂、深大寺、布田、石原、国領では、学制による、学校を、開校するのである。

明治7年2月時点。
 布田小島村他 9村で539戸。2,671人。
 深大寺村他  2村で287戸。1,482人。
 下千川村他  3村で248戸。1,344人。  合計1,074戸。5,497人である。
明治33年時点。
  調布町  616戸。
  神代寺町 523戸。  合計1,139戸となるのである。

 


 

 今現在、平成18年時点では、調布市の人口は、なんと、21万人なのである。
狭く感じるのは、仕方の無いことなのでしょう。

佐須村、佐須豊後守が鎮守稲荷の、神職として、この地に住み、佐須となる。子孫、里正三郎右衛門氏。佐須氏はその後、温井氏となった。

村山党の難波田氏の館は、虎狛神社と向かい合っていたのです。


みたかの昔から。

井の頭弁財天社、大正6年頃。

弁財天は、大正の13年に家事で消失し、後に再建されました。

 みたかの昔から。

取れた野菜を、洗っている所です。少し前には、良く見られた風景です。

足柄山の金太郎

「鉞かついで金太郎、熊に跨りお馬の稽古、はっしどうどう、はいどうどう」

こんな歌が有るのを、ご存知ですか?

この金太郎の、モデルと言われた、平安時代の、下毛野 公時。

「随身」、京の貴族の警護をなさる仕事です。

馬を乗りこなすのが、非常に上手な方々。下毛野氏も、随身の仕事に

就かれていた様です。

武士と馬。切り離せない存在です。

源平合戦を書き記した「平家物語」

平家の将、平知盛。愛馬は「井上黒」、素晴らしい名馬らしいです。

副将の、平重衡。駿馬「童鹿毛」で逃げる時、梶原景季の弓に、馬が射られた

のです。

駿馬、名馬、愛馬、素晴らしい乗り手と馬。

武士にとって、必要な馬でした。

 

 

昭和初期、馬力車を引く、ゲートル姿の大人と、ハカマ姿の男の子。

五日市合併40周年記念写真集から、上町で。

 

武家の情報網、忍者としてご存知でしょうか。

 老中、水野越前守の隠密基締めは、風月堂の当主でした。

 本郷の菓子処、ふじむらは、加賀藩の御用を承っていました。

 菓子屋、古着屋、呉服屋、情報網として活躍しました。

サンカ、大陸から流れ来た、漂泊者です。

 山に住む人の意味もあります。 芸能事が得意で、独特の技術を持って、国を

 流れ歩いていました。

 

大和民族

 日本人は混生、混血によって成り立っているのでしょう。

 大和朝廷の配下で、大和朝廷の領地に、住むことを許された民を、大和民族と

 呼んだのではないでしょうか。

 大陸から、半島から、日本に住み着いた人達、大和朝廷から官位を頂き、

 認められた方々が、大勢居ます。

 


 歴史の好きな方。此処、調布へいらっしゃいませ。
古代から始まる、物語。ご自分の好きなところを、調べてください。

 豊臣秀吉からの、徳川家康の、大田塚、大田道灌の弟の、首塚もあります。
江戸城を造るとき、その材木を寄進した方の、子孫もおります。
 緑が、畑が、無くなって、家、ビルばかりの現在で無い、面白い調布、が有ったこと、天領、幕府直轄領、のびのびとした、自由人が沢山いたのです。


 

               武蔵国の川と城を地図にしたものです。
調布市こぼれ話

 

深大寺とは、浮岳山深大寺。

寺の境内の中に、池が在ります。池の水神様、深沙王から、来ています。

調布は府中領で、狛江は世田谷領でしたが、現在の調布は、両方の領から成り立っています。

古くの和名で「古萬衣」「駒江」と書いていました。

和泉村は世田谷領で、此処を領有支配していたのが、彦根藩の井伊家でした。

井伊直弼は「日米修好通商条約」を締結為された方です。

和泉村名主の石井義純氏。名主を襲名後、伝三右衛門と名乗りました。

井伊家、桜田上屋敷の米の納入を引き受けます。

藩の財政が窮乏しており、その手助けとして、藩の内政にも一役買います。

桜田上屋敷の、筆頭頭御右筆と。

多摩霊場88箇所の最後は、高幡不動金剛寺にて、打ち止めとなります。

 

             四季の耕作図から、昔の農家の収穫時期の様子です。

律令国家の租庸調とは?

祖。田一枚につき、2束2把が原則です。収穫の30〜10%に当たります。国へ11月30   日迄に納入。地方では、災害備蓄米を残して出します。

庸。正丁、21〜60歳男子のこと。次丁、障害者と61歳以上の男子の老丁のこと。これら男子に、労役を課すこと。代用品OK。布、綿、米、塩、で代用出来ました。

調。老丁を除く男子に課せられました。繊維品の納入が基本でした。地方の特産品34品、

貨幣もOKです。納入品が、政府の主要財源となり、官人への給料となった。

紙、漆、工芸品でもOK。納入運賃を各自が負担です。飛騨は、庸調を免除。匠丁を出すことが、条件です。都の建築工事、修理を受け持ったのです。

      石橋山の合戦における、相模武士。昔はこんな感じで、戦をしていたようです。 

 

 多摩の地酒の紹介です。有名な処は沢山有ります。

     狛江土屋酒造の 「桜子」「鳳桜」。府中野口酒造の 「国府鶴」。

     八王子中島酒造の 「日出山」「陣馬山」「高尾山」。サントリー武蔵野工場。

     小平の杉を使い、「小平の香り」。町田の 「月丸」。多摩の 「原峰のいずみ」。

     渡辺酒造の 「雪華」「吟雪」。田村酒造の 「嘉泉」。石川酒造の 「多摩自慢」。

     中村酒造の 「千代鶴」。野崎酒造の 「喜正」。大多摩酒造の 「大多摩」。

     豊島酒造の 「金婚正宗」。小沢酒造の 「沢の井」。小沢酒造の 「桑の都」。

     


近藤勇の紋は三つ引き

         谷保郷、津戸三郎為守、上人の庵室に至り、合戦の懺悔をなし、帰信の図。

          日本絵巻物語全集、第十四巻法然上人絵伝より。 

 

 

近藤勇の紋は、三つ引き紋。

 「殉節両雄之碑」

 1876年、高幡山金剛寺の境内に、碑が建てられました。

 元会津藩・松平容保氏が碑の篆額を、

 撰文は元仙台藩の儒者、蘭学者の、大槻磐渓清宗が、

 書は松本順、この方は初代軍医総監でした。

 

 新撰組隊長・近藤勇氏と、副長・土方歳三氏、二人の誕生から、死までの略歴と

 功積を記しています。

 

 建碑の発起者として

  日野・佐藤 俊正氏、府中・糟谷 良循氏(歳三の実兄)、日野・土方 義弘氏(甥)、

  谷保・本田 定年氏、小野路・橋本 政道氏、調布・近藤勇五郎氏、

  小野路・小島 為政氏の七人の方でした。

 

 明治9年に、宮川から近藤へ変わりました。勇五郎氏は、三鷹・野崎の吉野泰三氏

 らの、民権結社「自治改進党」にも入っていました。

 

鹿島新道流の祖。飯篠長威斎家直からの、伝系が残されています。

 表木刀の型は、鹿島の太刀である。

 

剣術、居合い、柔術、棒術、活法、気合術が入ります。鹿島と名のつく通り、常陸の国、鹿島神宮に関係があります。

鹿島神社は元は、常陸の国の、地元の神社であったそうです。

神社領を、行方四頭が攻め、領地を奪うことから大掾氏の鹿島神社との、係わり合いが生まれてきた。神社の造営、費用を兄弟が順番に回り持ちをし、その信仰を背景に、拡大がなされてきたのです。

 

鹿島の剣豪、塚原朴伝

 天真正伝香取神道流の流れを引く、剣術流派、新当流の開祖である。 

 1489年〜1571年。塚原高幹。通称、新右衛門、土佐守、土佐入道とも。

 号は朴伝。塚原城、城主である。

 鹿島神宮の神官、卜部覚賢(吉川覚賢)の子として

 常陸の国、鹿島に生まれる。幼名、朝孝。 後に塚原安幹の養子となり、苗字塚原、

 名前高幹と為る。 

 実父からは鹿島古流を学び、養父からは、天真正伝香取神道流を

 学び、松本備前守から、奥義[一の太刀」」を伝授される。

 39回の戦い、19回の真剣勝負で、一度も負傷しなかったという。

 河越城下での、梶原長門との戦いは有名である。

 弟子には、室町幕府13代将軍、足利義輝がいる。

 北畠具教には、奥義の、一の太刀を伝授した。

 諸岡常成、真壁氏幹、斉藤勝秀、諸岡一羽、根岸兎角、孫弟子、田丸直昌。

 天文4年、1535年。

 朴伝45歳のとき、佐竹、結城連合軍が府中の大掾を攻めてきた。

 朴伝以下、33館高浜にて、戦った。 後の1592年、又の佐竹の来襲、このとき33館

 滅ぼされたのである。 

飯篠長威斎家道・天真正伝香取神道流

 弟子に、新当流開祖・塚原卜伝、鹿島神道流・松本備前守政信、がいた。

 

上泉伊勢守秀綱、上泉信綱

 塚原卜伝と並び称された、「鹿島神道流」開祖、松平備前守が、秀綱が鹿島に稽古に

 来ていたことから、見知って、卜伝に「宜しく頼む」ほどの、秀でた人だった。

 上泉城、上州は赤城山の南麓の大胡城主。

 関東菅領、上杉家に仕える、箕輪城主、長野業政の命を受ける立場。

 関東の覇者を狙う、越後長尾景虎(後に上杉家を継ぎ、上杉謙信)、小田原北条氏康、

 甲斐武田信玄。

 長野業政の死で、箕輪城を攻める。息子、業盛の自刀で、いよいよ最後の決戦。

 信玄より、使いのものが秀綱に。「無駄死になさるな」と。

 信玄に仕える気が無い事。他家は無論の事と、信玄へ伝える。

 「長野家滅びたる後、ただ一人剣の道に生きる存念にござる」と。

 信玄より「信」の字を頂く。上泉信綱と改める。

 城は息子へ。疋田文五郎、神後宗治の二名を連れ、上州赤城を去る。

 旅の途中、柳生又右衛門宗巌に「新陰流」を伝授。

 新陰流、又は新影流。燕飛、山陰、月影、松風の四つの秘伝、組太刀にある。

 「竹刀」を工夫、発明した方です。

 

 剣豪五人をとなれば、塚原卜伝、上泉信綱、必ず入ると思います。

 この時代の戦は、一人の武将の指導力が、大きく左右しました。

 頭脳明晰、作戦戦略は無論のこと、体力、強さ、戦上手が、求められていたのです。

 

新撰組筆頭局長、芹沢鴨

 近藤派との対立によって、殺害された芹沢。

 常陸大掾一族、多気氏の流れ、芹沢城、城主の三男。

 1591年、佐竹との戦では、生き延び、秋田へ移住。佐竹氏が秋田へ行く

 のと入れ替えに、元に戻った。子孫は水戸で活躍。 

 鴨氏も、水戸天狗党の出身。

 平山、平間、野口らと共に、幕府浪人組に参加します。近藤、土方らと共に

 京に残留します。

 近藤派との対立が、目立つようになり、土方、沖田らによって、

 殺されてしまいます。

 

天然理心流、初代

 初代は、出自が定かでなく、真剣勝負を近藤内蔵助として、近藤姓を貰ったそうです。

 何故、姓名を?疑問に想う方は、多いと想います。

 この時代、武士は、名乗りを上げて、相手と戦うのが、普通の事です。

 

小野路、修行の場、才蔵院

 小野路、柚木農場跡、修験の才蔵院があり、そこが最初の頃、道場となっていたのでは

 無いでしょうか。 

 近藤、沖田、土方、井上らが、愛宕の切りとおしを通り、布田道を通ったそうです。

 小野路、宿場町として、江戸末期、明治の初め頃まで、栄えていたそうです。

 江戸庶民の、一つの楽しみ。大山参り。 この小野路が使われていたのです。

 今も面影を残す、鎌倉古道。 雰囲気のある、田舎道です。

 

天然理心流、二代目 

 坂本三助。

 武州多摩郡戸吹村中郷、名主坂本戸右衛門の長男、三助。

 親の跡を継がねば為らない立場なのに、家業はしないで、大好きな剣術のみ。

 剣術稽古に熱中し、殆ど家には居なかったと言う。

 門弟の中で、特に剣技がずば抜けていた。

 指南免許を許されて、戸吹村で、剣術を教えていた。

 初代が亡くなる時に、他の門弟を人払いして、三助だけに、奥義を伝えたという。

 拠って、三助二代目を、襲名する。

 三助、此処で近藤姓を名乗ることになる。二代目、近藤三助。

 

天然理心流、三代目

 武州多摩郡、小山村、名主嶋崎休右衛門の五男。嶋崎周平。中の庫嶋崎である。

 常陸鹿島との関係が深い。相模国にいた嶋崎氏。北条対秀吉連合、小田原の戦いの

 時に、津久井城に篭り討ち死にした、名主総代名主、嶋崎氏。同じ小田原の戦いで、

 八王子城に篭り、討ち死にした嶋崎二郎利幹。

 嶋崎三郎次吉家継の子孫は、町田小山の木屋嶋崎。

 木屋には、「家継」の刀が、代々に伝わっています。

 1555年常陸は嶋崎村より、小山の地へ戦に敗れ逃げてきたのです。

 

 長国寺に碑を建てた、嶋崎定幹。小山嶋崎関係は、常陸嶋崎の家系なのである。

 三代目も小山嶋崎の一人。

 見た目はと言うと、小柄、女性的であったそうです。 

 見た目と違うのは、行動。蛇を見つけると、その場で、皮をむいて、生で食べてしまった

 そうです。 体力をつけるにしても、何と無く、、、実子は居なかった。 

 妻の他、囲っている女性は、多数居たという。

 三代目、試合に勝っても、負けても、余り気にしなかった。 

 負けるということに、こだわらなかったみたいです。

 

天然理心流、四代目 近藤勇

 三代目周平のときに、道場に通っていたのが、宮川兄弟、土方、沖田らである。

 宮川勇。宮川家の末っ子である。

 幼名「勝五郎」。父親に、非常に可愛がられたと言う。

 父親の影響を、強く受けていたと想われる。

 1848年、兄と共に道場入門時、15歳。

 最年少であった。三代目、この少年に、目を掛けていた。

 人一倍、稽古熱心である上、その素質の素晴らしさに、惹かれていたのである。

 入門後8ヶ月で、もう目録を頂いていた。

 機知に富み、度胸の良さ、勘の良さ、素質の良さ、将来が楽しみな少年である。

 宮川家から、嶋崎家へ。改め、嶋崎勝太。

 その後も、剣術一筋は変らないが、勉強もやり始めた。

 漢学を学び始めたのである。

 府中は大国魂神社境内での、紅白試合。

 これにて嶋崎勝太、改め、近藤勇となる。

  1861年8月、四世襲名披露の、野試合。 

 赤方、本陣総大将、勇。中軍旗本衛士、土方才三。

 終了を告げる役、太鼓役の沖田総司。

 鉦役、井上源三郎。玄武隊、山南敬助。 

 白方の大将、佐藤彦五郎。 後に日野町の、町長になった方です。

 

新撰組誕生

 初代筆頭局長 芹沢鴨・光幹  1827〜1863 水戸芹沢村出身

  芹沢城主、芹沢貞幹の三男。 幼名龍寿。 土方らによって、殺害される。

 局長 近藤勇   1834〜1868 武蔵国多摩郡上石原村 天然理心流

 参謀 伊藤甲子太郎 (鈴木大蔵) 1835〜1867 常陸国志筑出身 北辰一刀流

 総長 山南敬助藤原知信  1833〜1865 陸奥国仙台出身 北辰一刀流

           江戸での他流試合にて、勇と知り合い、天然理心流も。

 副局長 土方才三  1835〜1869 武蔵国多摩郡石田村 天然理心流 

 一番隊組長   沖田総司  1842〜1868 陸奥国白川藩 沖田勝次郎の長男。

       江戸屋敷にて生まれる。8歳頃から、天然理心流道場に、預けられる。

 二番隊組長   永倉新八  1839〜1915      松前藩脱藩 神道無念流

 三番組隊長   斉藤一(山口一) 1844〜1915 父は明石藩足軽 一刀流

 四番組隊長   松原忠司

 五番組隊長   武田観柳斎  ?〜1867 出雲母里藩の医者 甲州兵法の学者

                              北辰一刀流

 六番組隊長   井上源三郎 1892〜1868  武蔵国多摩郡日野村 天然理心流

 七番組隊長   谷三十郎

 八番組隊長   藤堂平助   1844〜     伊勢藤堂家江戸生まれ 北辰一刀流 

        噂では、伊勢・津藩主、藤堂和泉守の落胤。 非常な美男。  

 九番組隊長   鈴木三樹三郎

 十番組隊長   原田左之助  1840〜1868 伊予松山藩脱藩 種田流の槍

 監察        山崎蒸    ?〜1868 大阪出身 鍼医の子 

        京、大阪の地理に詳しく、会議の場に参加することが多かった。

                  

こぼれ話になります

 

 多摩地区は、どこにでも、桜見物に良いところが、あります。
且って桜といえば、山桜、彼岸桜、里桜が主流だったそうですが、今は見たくとも、無いのです。殆どが、ソメイヨシノ。でも、素敵な桜の季節、どうぞお出でくださいませ。

深大寺城跡地付近は、野川が流れ、湿地帯もあり、良いところです。
耳寄りな話。美しい、かわせみが、いるのです。
人が沢山出て、自然を壊すといけませんから、此処とは、教えません。

 この付近で、観察できる、野鳥を紹介しておきます。
サギ、鴨、キジバト、鶫、白セキレイ、ヒヨドリコゲラ、磯シギ、背黒セキレイ、四十雀、ムクドリ、尾長、百舌、大鷹、頭鷹、ビンズイ、ジョウビタキ、シメ、鶯ヒガラ、かわせみ、雀、鳩、鴉、まだまだ、いるかも、、、

 地元の人は今でも、折に触れ、昔の屋号で言うことがあります。
大昔の職業で。例えば、ほうき屋、提灯屋、石屋、笊屋、蕎麦屋、下宿の、中宿の、上宿、と言う人、言って直ぐ分かる人、まだまだ大勢います。

嘗ての、宿場の名残でもあります。 調布と一言では、言えません。

 私の、貴方の、好きな調布を、探し出して、親しみを、愛着を感じて下さいませ。

 調布のおススメホームページ リンク
少林寺拳法 調布支部
調布市各所の写真も満載 

  八王子城、落城     短歌     ライフデザイン・コンサルタントとは     私の住む町 調布     ショップページ     会社概要     プライバシーポリシー  
Copyright 2005 (c) ジュノー企画. All right reserved.